斎藤道三と義龍・龍興 - 横山住雄

斎藤道三と義龍 横山住雄

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斎藤道三と義龍・龍興 横山住雄 著 守護土岐氏を追放して戦国大名化した「美濃の蝮」道三、悲劇的な父子対立、宿敵織田信長との抗争による滅亡と、波瀾万丈な斎藤氏三代の興亡を新史料から鮮やかにひもとく。. 【tsutaya オンラインショッピング】斎藤道三と義龍・龍興/横山住雄 tポイントが使える・貯まるtsutaya/ツタヤの通販サイト!. 20日、義龍軍が長良川南岸に進むと、道三はあえて鶴山の天嶮を捨て、長良川北岸に進んだ。道三にとってもはや勝敗は問題ではなく、国盗りにささげた生涯の幕をどのように下ろすかが、最大の関心事だったのではないか。 戦いが始まり、義龍軍の先手が猛然と攻めかかるが、道三の指揮は冴え、先手の軍勢を壊滅させて大将を見事に討ち取る。圧倒的な兵力差がありながら、序盤は道三軍が優勢だった。道三が戦巧者であったのは、間違いないだろう。 長良川 しかし乱戦になると数の差はいかんともし難く、ついに道三本陣にも敵がなだれ込む。長井道勝(みちかつ、道利の息子)が道三を生け捕りにしようと組みついたところを、小牧源太(こまきげんた)が横槍を入れ、道三の脛(すね)を薙(な)ぎ、倒れたところで首を打った。生け捕りにしようとしていた長井はこれに激怒し、自分が真っ先に組みついた証として、道三の鼻を削(そ)いだという。道三、享年63。 一方、信長は大良河原で義龍軍と戦うが、道三討死の報せが届くと、信長自ら殿軍(しんがり)を務め、鉄砲で義龍軍の追撃をさえぎりながら、尾張へと引き上げた。信長が、道三より譲られた美濃をその手にする. 越前の朝倉孝景(たかかげ)は織田信秀と連携し、天文13年(1544)8月に美濃へと南下を開始。土岐頼純も同陣していただろう。これに対し道三は、近江の六角、浅井らに朝倉勢への牽制(けんせい)を頼むが、9月19日、美濃赤坂で頼純方の徳山次郎右衛門(とくのやまじろうえもん)と戦って、敗北。赤坂周辺の城を明け渡して、稲葉山城へと撤退した。これに勢いづいた織田信秀は、一気に道三の稲葉山城下へと攻め寄せる。 9月22日、惣構えに守られた井口を破ろうと、織田軍は村々を焼き払い、町の入口をこじ開けようとした。その間、道三方は防戦するのに精一杯の様子である。敵を軽く見た織田軍は、日没となったので兵を引き上げ始めた。道三が攻勢に転じたのは、この時である。城門を開くや、織田軍の背後から美濃の軍勢が怒濤のように襲いかかった。油断していた織田軍はたちまち切り崩され、大損害を出し、信秀は弟や家老を失いながら、少数で居城の古渡(ふるわたり)城に逃げ帰ったという。織田軍の大敗に、南下中だった土岐頼純と朝倉勢は形勢不利と見て、越前に引き返す。これが加納口(かのうぐち)の戦いと呼ばれるもので、道三の鮮やかな勝利であ. 横山住雄氏の「斎藤道三と義龍・龍興」に、斎藤道三には三人の妻(正室)がいたという記述がありますが、小見の方以外の二名は誰でしょうか? 一人は長子隼人正の母でおそらく長井氏のむすめ。二人目が、いわゆる三芳野様。通説では一色氏ですが、本来は稲葉一徹の姉。土岐頼芸の妻.

弘治元年(1555)12月頃、義龍は名を范可(はんか)と改めた。范可とは、唐(とう)の時代にやむを得ず父親を討った者の名前であり、いわば義龍の道三への宣戦布告であったろう。『信長公記』によるとその直前の11月23日、義龍は病気と偽って、道三が可愛がる孫四郎、喜平次の二人の弟を稲葉山城に呼び出し、城内で斬り殺したという。かねてより道三は義龍を愚か者と呼び、二人の弟を溺愛していたというのだが、土岐家の後継者争いが混乱を招いたことをよく知る道三が、果たして同じ轍(てつ)を踏むだろうか。なお『黄耈雑録(おうこうざつろく)』は、討手は日根野備中守弘就(ひねのびっちゅうのかみひろなり)だったと記す。. 土岐頼芸が道三に深芳野を与えた際、すでに彼女が頼芸の子を懐妊していて、それが義龍であったという説はよく知られている。しかし、そのことを裏づける同時代史料はなく、義龍が頼芸の子であったとする史料はいずれも江戸時代のものであるため、一般的には史実ではないとされている。 ただ想像するに、道三はそうした噂を逆手にとって利用しようとしたのではないだろうか。道三の後継者が実は美濃守護の落胤(らくいん)であれば、反道三勢力も納得して従うだろう。道三は義龍を前面に立てることで美濃の人心を掌握する一方、背後で実権を握り続けるつもりではなかったか。その裏づけとして、義龍に家督を譲った以後も道三が指示を出し、義龍が追認している書状が見られるという。義龍にすれば父親の傀儡(かいらい)になっているようなもので、面白くないだろうし、庶子であるだけに、いずれ廃嫡されて弟が家督を継ぐのではと、疑心暗鬼にかられたかもしれない。. 『斎藤道三と義龍・龍興』(横山住雄 戎光祥出版) 『美濃斎藤氏』(木下 聡 編 岩田書院) 『道三から信長へ』(岐阜市歴史博物館 平成18年11月). See full list on intojapanwaraku. .

横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)』(→amazon) 木下聡『美濃斎藤氏 (論集 戦国大名と国衆)』( →amazon ) TOPページへ. 美濃を追われた土岐頼芸は、妹の嫁ぎ先である近江の六角氏を頼った。頼芸に対する道三の仕打ちについては、「暴虐の臣によって国を奪われ、太守は江州に牢籠せり」と批判する同時代史料がある一方、道三と和議を結んだ織田家の反応は異なる。当時の織田家の外交を担当していた織田寛近(ひろちか)は、頼芸の息子・小次郎頼次(よりつぐ)への手紙で「土岐殿のこの度の追放はやむを得ないことで、あなたの身の上は問題ないと山城守殿は言っている」と、伝えているのだ。下剋上を肯定しているわけではないが、現状では仕方のないことだと言い含めているのである。 織田家家紋の「五つ木瓜(もっこう)」 実際、尾張でもこの4年後に、守護の斯波義統(しばよしむね)が小守護代に討たれる事件が起きる。そうした下剋上がいつ起きてもおかしくない状況であり、むしろ油断する方が悪いということかもしれない。当の織田信秀も主君を討つことはしていないものの、他の守護代や奉行たちと争い、勢力は守護や守護代を上回っていた。実力のある者が力を発揮しなければ、たちまち他国に呑み込まれる時代なのである。もちろん美濃も同じで、もし道三がいなければ、越前の朝倉や. 横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興』の感想・レビュー一覧です。ネタバレを含む感想・レビューは、ネタバレフィルターがあるので安心。読書メーターに投稿された約5件 の感想・レビューで本の評判を確認、読書記録を管理することもできます。. 改名にもみえるように、父との対立を明確にした義龍は、弘治元年(1555年)の合戦で道三を破り、彼を政権から追放して落ち延びさせました。さらに、翌年には長良川において道三を討ち、事実上美濃を平定します。 こうして「父殺し」の悲願を果たした義龍は、名前を「范可」から「高政」に改名しました。彼にとってすでにこの名は不要になっていたのも道理で、対外的な目もあったのでしょう。 軍略家として知られた道三が比較的容易に敗れ去った理由として、彼の「国盗り」が少々強引なものであったため、旧土岐氏派の離反を招いたことが原因と指摘されることも。 また、土岐支持層の力を借りて道三を討ち果たしたという経緯から、「義龍土岐氏説」は正統性を帯びたのかもしれません。.

。その割に史料はとても少なく、謎の多い女性です。. 隣国尾張の信長が、21歳にして大器の片りんを見せ始める中、62歳の道三も後継者を考えなくてはならなかった。そして信長の村木砦の戦いから2ヵ月後、隠居して家督を28歳の長男義龍(高政)に譲った。義龍は正室小見(おみ)の方との子ではなく、土岐頼芸の愛妾だった側室深芳野(みよしの)との子で、庶子である(異説あり)。長男の庶子よりも、正室が生んだ弟を優先して家督を継がせる例は、当時、いくらでもあった。そうした中で、道三はなぜ義龍を後継者としたのだろう。 道三には義龍の他、孫四郎(まごしろう)、喜平次(きへいじ)、利堯(としたか)、利治(としはる)の計5人の男子がいた(他に僧籍の者が2人)。また一説に、道三の弟とされる長井道利(ながいみちとし)は、実は義龍よりも早く生まれた庶子であるともいう。義龍と長井道利を除く、残る4人が小見の方の子なのか、深芳野の子なのかは、実はよくわからない。ただ、義龍には異説もある。父親は道三ではなく、守護土岐頼芸である、というものだ。. . 斎藤道三と義龍・龍興 戦国美濃の下克上 - 横山住雄/著 - 本の購入はオンライン書店e-honでどうぞ。書店受取なら、完全送料無料で、カード番号の入力も不要!お手軽なうえに、個別梱包で届くので安心です。宅配もお選びいただけます。 『揖斐郡志』「徳山文書」によれば、天文13(1544)年の9月19日に赤坂(大垣市)で徳山次郎右衛門が道三軍に勝利し、道三は赤坂近辺の城を開城して退却した、とあります。 この内容について、郷土史家の横山住雄氏は著書『斎藤道三と義龍・龍興 戦国美濃の下剋上』の中で、道三軍が弱いと見せかけて稲葉山城に引き寄せる作戦だった、との見解を示しています。 年度はともかく、実際に『信長公記』では3日後にあたる9月22日に道三軍が稲葉山城で大勝しているので、矛盾はないようにも思えます。さて、実際はどうだったのでしょうね。.

翌天文17年(1548)8月、再び織田信秀が美濃に侵攻。4年前の屈辱を晴らすべく、一隊を大垣城に向かわせ、本隊は大野郡(現、揖斐〈いび〉郡大野町)に攻め込んだ。道三は国衆(地域領主)らとともにこれを迎撃するが、11月25日の饗庭(あえば)合戦で敗北。勢いづいた信秀は、谷汲(たにぐみ)の牧野でも道三方を破って、長瀬城を落とした。信秀の強さにさすがの道三も舌を巻くが、抜かりなく手を打っている。すなわち信秀を快く思っていない尾張守護代をそそのかし、信秀の留守城を攻めさせたのだ。これには信秀も大いに驚き、道三方に連戦連勝していながら、尾張へ引き上げざるを得なくなる。道三の戦略が、一枚上手であったということだろう。 帰蝶像. こうして権力と権威を手中に収めた義龍でしたが、義龍の生涯が順風満帆であったかといえば、必ずしもそうではありませんでした。 永禄3年(1560年)4月には彼の第一子が早逝し、続く7月には、悲しみのあまりに妻までもが亡くなってしまったようです。ちなみにこの妻は後妻にあたる一条氏と推定されており、前妻は浅井久政の娘だったとか。 つまり、かつて齊藤氏と浅井氏は同盟関係にあったが、義龍が浅井方との同盟を解消して前妻を近江へと送り返していたようです。事実、義龍は浅井と敵対関係にあった六角氏と同盟関係となり、浅井領である北近江に出兵した形跡がみられます。 そして思いがけないことに、義龍が左京大夫に任じられてからまもなくの永禄4年(1561年)5月にまさかの急死。まだ32歳という若さでした。 義龍の死により、美濃国を含めた情勢が一気に急展開していくことになります。 先ほど触れた快川と別伝の対立は、義龍の死をキッカケに後ろ盾を失った別伝らが捕縛され、処刑されるという結果に終わっています。また、信長が美濃への侵攻を本格化させ、結局、後を継いだ子の龍興はそれを防ぎきれずに美濃を追われることになるのです。. 岩田書院. 横山住雄『武田信玄と快川和尚』年 戎光祥出版; 横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興』年 戎光祥出版; 関連項目. 横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興:戦国美濃の下克上』戎光祥出版、年。 木下聡「総論 美濃斎藤氏の系譜と動向」『論集 戦国大名と国衆16 美濃斎藤氏』岩田書院、年。. Amazonで横山住雄の斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)。アマゾンならポイント還元本が多数。横山住雄作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。. その後も道三と土岐頼純方との小競り合いは続いたが、朝倉孝景が京都の幕府に働きかけて、天文15年(1546)、ようやく講和することになった。講和の条件として、頼純を次期守護とすることがとり決められた可能性があり、また道三の娘・帰蝶(きちょう)が頼純に嫁いだという。これで、ようやく美濃国内の対立の火種は消えたかに思われたが、道三に、そのつもりはなかったようだ。 『信長公記』に、次のような記述がある。.

斎藤道三と義龍・龍興 - 戦国美濃の下克上 - 横山住雄 - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!. 森可成 - 信長へ仕える以前に家臣だったとも; 日根野弘就; 西美濃三人衆; 外部リンク. 横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興』戎光祥出版、年。 木下聡「総論 美濃斎藤氏の系譜と動向」『論集 戦国大名と国衆16 美濃斎藤氏』岩田書院、年。 和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』中央公論新社、年。 (筆者・とーじん). 斎藤道三と義龍・龍興―戦国美濃の下克上. | 斎藤道三と義龍・龍興 戦国美濃の下克上 中世武士選書 | 横山住雄 | 斎藤道三と義龍・龍興 - 横山住雄 JP Edition | Books || HMV&BOOKS online : Online Shopping & Information Site Multiple payment & delivery options for our customers. 天文4年(1535)4月、土岐頼芸は亡父政房の法事を居館の枝広(えだひろ)館で執り行い、自分が後継者であることを内外にアピールした。それを補佐したのは道三である。その2ヵ月後、美濃で大洪水が起こり、川に近い枝広館は流されてしまう。頼芸は道三に助けを求め、道三が居城としていた稲葉山城内に転がり込んだ。頼芸が何かにつけて、道三を頼りにしていたことがうかがえる。 大桑城跡 一方、頼芸の兄・政頼は、まだ美濃奪回をあきらめてはいなかった。美濃の北には頼芸が守護となることをよしとしない勢力も根強く、政頼はその支援を受けて、美濃北方の大桑(おおが)城(岐阜県山県市)に入る。そして同年8月、政頼は攻勢に出て、頼芸・道三軍と衝突。越前(現、福井県)の朝倉(あさくら)氏、近江(現、滋賀県)の六角(ろっかく)氏も政頼に協力したため、戦いは翌年にまでもつれ込む大乱となった。道三の台頭を危険視する者も、少なくなかったのだろう。. See full list on sengoku-his. 斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29) 斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29) isbn:横山住雄 参考価格 3,800円.

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斎藤道三と義龍・龍興 戦国美濃の下克上 (中世武士選書) 著者 横山 住雄 (著). 享禄2(1529)年、義龍は斎藤道三の長男として誕生、母は側室の深芳野であるとされ、幼名は豊太郎を名乗っています。 なお、義龍は生涯で何度も名を変えていることが特徴であり、その点についても意味を解説していきますが、本文中の記載は「義龍」で統一していきます。. 帯なし★「斎藤道三・義龍・龍興」★横山住雄著 大河ドラマ「麒麟がくる」 光秀・信長 稲葉山城攻略 新事実を次々に発掘した名著! 未使用 このオークションは終了しています. 斎藤道三 (さいとうどうさん) と義龍 (よしたつ) ・龍興 (たつおき) : 戦国美濃 (せんごくみの) の下克上 (げこくじょう). 斎藤道三と義龍・龍興の本の通販、横山住雄の本の情報。未来屋書店が運営する本の通販サイトmibonで斎藤道三と義龍・龍興を購入すれば、ポイントが貯まります。本の通販 mibonでは人文書の本 新刊・既刊や雑誌など約250万冊の本が購入できます。. 横山住雄の著作「斎藤道三と義龍・龍興」は資料としての評価はどの程度でしょうか? 室町時代末期(戦国時代)の濃尾地方や織田信長・斎藤道三・土岐一族を調べると、横山住雄という郷土史家の著作に行き当たることが多いです。. 道三と信長といえば、有名なのが聖徳(正徳、しょうとく)寺の会見であろう。信長の父・信秀が逝去した翌年の天文22年(1553)、道三は娘婿の信長と対面することを望んだ。あの信秀が選んだ後継者である一方、他国にまで伝わっているのは「大うつけ(大馬鹿者)」という噂である。道三とすれば信長の器量をその目で確かめ、噂通りならば尾張を奪うことも辞さない腹積もりであったという。 会見場所は濃尾国境の富田(とんだ)村聖徳寺(現、一宮市)。『信長公記』によると、道三は会見前に、信長の行列を小屋の中からひそかに見物した。馬上の信長は、髪は茶筅(ちゃせん)に結い、萌黄(もえぎ)色(黄緑色)の平打ち紐(ひも)で髻(もとどり)を巻いていた。湯かたびらの片袖を外し、虎と豹の皮を四色に染めた半袴を着けている。腰の太刀と脇差の鞘(さや)は金銀ののし付きで、長い柄(つか)にはわら縄を巻いていた。太い麻縄を腕輪にし、腰には火打ち袋と、ひょうたんを7つも8つも付けている。うつけと呼ぶにふさわしい、大いに傾(かぶ)いた風体(ふうてい)といえるだろう。 しかし道三の目を奪ったのは、それだけではない。信長が率いる槍隊の槍が.

尉の素性;灯油を売り歩く行商人となる ほか) 第2章 斎藤道三. 天文2年(1533)、主家である長井の姓を拝領し、長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)と称していた松波庄五郎が逝去。そのあとを息子の道三が継いだ。主家の長井家は守護代(守護の補佐役)斎藤氏の家老を務める家柄で、亡き庄五郎は長井家当主・長弘(ながひろ)と常に行動を共にし、篤く信頼されていたという。庄五郎は、長弘に次ぐポジションであったようだ。当時、道三は長井新九郎規秀(しんくろうのりひで)と名乗っていたが、本記事では道三で統一したい。 道三は明応3年(1494)、美濃の生まれといわれるので、この時、40歳(異説あり)。もちろん、庄五郎存命の頃からすでに長井長弘のもとに出仕し、土岐家の後継者争いでは、土岐頼芸(よりのり)方の中心人物の一人として、その兄・政頼(まさより、頼武とも)方と何度も戦い、頼芸の信任も得ていた。 大永6年(1526)、道三33歳の頃には、頼芸の愛妾(あいしょう)・深芳野(みよしの)を与えられているのもその証であろう。なお深芳野は翌年、男児を生む。これが道三の長男で、のちの斎藤義龍(よしたつ、高政)である(異説あり)。 さて、父・庄五郎が没した天文2年、主君の長. 稲葉山城を攻めたという「加納口の戦い(井ノ口の戦いとも)」の時期については、天文13年と天文16年の2つの説があります。 『享禄以来年代記』や小瀬甫庵の『信長記』は天文16年の戦いとしており、一方で『東国紀行』や『円興寺過去帳』、『美濃国諸旧記』などは天文13年のことと記されています。この他、『信長公記』に至っては年が記述されていません。 本当はどっちなのか、それとも二度に渡って合戦は起こっていたのかは、ハッキリしていません。 現在放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」では、第1回の放送時が天文16年。加納口の戦いはこの年に起こった出来事として描かれます。. 道三の生涯を、推測もまじえながら追ってみた。美濃の国盗りは、旧来の秩序や価値観が崩れる乱世であったからこそチャンスが生まれ、成就したといえる。とはいえ身一つの庶民から大名にまで上り詰めた者は、いかに乱世でもめったにいない。その意味で松波庄五郎・斎藤道三父子は、稀有(けう)の存在といってもいい。 下剋上を繰り返し、のし上がっていった者を梟雄と呼ぶのは、後世の価値観もまじっているのかもしれない。たとえば君臣の忠義を重んじる儒学が盛んであった江戸時代は、道三は悪逆非道の者として語られ、非業の死は因果応報とされた。そのイメージが定着し、道三イコール悪人として浸透していった部分があるだろう。しかし、歴史は後世の価値観をあてはめて評するものではない。 そして、庄五郎や道三が生きた時代の価値観は、また異なる。激変する時代の中で、求められたのは才能のある者であった。だからこそ出身にとらわれず、実力があれば高みを望むことも許された。. 【重要】本商品は委託品となり、取次店から直接手配となります。当店のお買い物ガイド(販売条件・支払い方法・送料について)をよくご確認の上、ご注文下さいますようお願い致します。 ISBN:タイトル:斎藤道三と義龍・龍興 戦国美濃の下克上 横山住雄/著 フリガナ:サイトウ ドウ.

斎藤義龍(斎藤高政)はなぜ父の道三を殺した?. 帰蝶の輿入れにより織田家との和議も整い、美濃と尾張の間は平穏になった。信秀の支援で反道三の姿勢をとっていた者たちも、討たれるか帰順するかで美濃国内も整理されていく。この頃から道三は、斎藤山城守(やましろのかみ)と称していたようだ。そして、そろそろ頃合いと見たのか、道三は天文19年(1550)末、国盗りの仕上げにかかる。美濃守護土岐頼芸の追放であった。 鷹 この頃、頼芸は、亡き兄や甥がいた大桑城にいたとも、別の美濃北方の城にいたともいう。政治の中枢からは外れており、鷹の絵を描いて日々を送る生活だったらしい。道三によって、身内が殺されたことに心中穏やかでない部分もあったろうが、一方で道三を頼る気持ちもあったのかもしれない。放っておいても害のない存在であったように思えるが、道三は追放に踏み切った。やはり「国主」の座を求めたのだろうか。稲葉山城下には何者かによって、次の落首が掲げられたという。 いずれにせよ守護頼芸を国外に追放した道三は、天文19年末には美濃国主となり、美濃の全権を掌握したのである。時に道三、58歳。下剋上、ここに極まれり、というところだろうか。. 斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29) 作者: 横山住雄 出版社/メーカー: 戎光祥出版 発売日: /09/10 メディア: 単行本(ソフトカバー) この商品を含むブログ (1件) を見る 昨日のブログにも書きましたが、『斎藤道三と義龍・龍興 戦国美濃の下克上』中世武士叢書29 戒光祥出版 年9月10日. 横山住雄「斎藤大納言と「今枝氏古文書等写」について」『岐阜史学』78号、1984年。 横山住雄「土岐頼武の文書と美濃守護在任時期」『岐阜史学』80号、1986年。 鈴木秀雄「忘れられている美濃戦国文化─斎藤道三の風雅─」『郷土研究岐阜』76号、1997年。.

横山住雄『斎藤道三と. まず金華山(きんかざん)の山頂にある稲葉山城と、山麓の居館を整備するため、天文8年(1539)、山麓の丸山にあった伊奈波(いなば)神社を井口洞(いのくちほら、現、岐阜市伊奈波通り)に移転。稲葉山城の備えを強化するとともに、城下町の七曲通(ななまがりどおり、現、岐阜市本町周辺)に井口村の百姓に町屋を作らせ、百曲道(ひゃくまがりみち、現、上大久和町周辺)には大桑から町人を移住させて、新たに町を設けた。 稲葉山城跡から城下を望む 稲葉山城の麓(ふもと)には、土岐頼芸の守護所も構えられる。そして町全体を堀と土塁で囲み、防衛力を強化した。「惣構(そうがま)え」である。商人や職人が戦火を恐れずに商売ができるようにしたわけで、さらに道三は楽市楽座(らくいちらくざ)を宣言し、稲葉山城下での自由な商取引を認めた。これは織田信長に先駆ける画期的なもので、噂を聞いて諸国から商人が集まり、井口は美濃きっての商業都市になっていく。市場が賑わえば、当然ながら城主の道三の懐もうるおうことになった。 経済的に余裕が生まれれば、自ら兵を養うことができる。当時、傭兵(ようへい)を集めることは容易であり、良い条件を示.

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